【広島・広島女学院】被爆ヴァイオリンが語る記憶 ─ 原爆とロシア家族の真実

中国・四国

プロフィール

歴史大好き、東京在住のRiccaです。
東京で生活しながら、全国各地の歴史と人の記憶を訪ね歩いています。
今回は、広島の旅の中で出会った“沈黙の証言者”──被爆ヴァイオリンとの出会いをご紹介します。

場所・アクセス

広島女学院は、広島市中心部、広電「女学院前」駅からすぐの場所にあります。
広島駅からもアクセスしやすく、市内電車を利用して10分程度で到着可能。
周辺には原爆ドームや平和記念公園、資料館などもあり、歩いて回れる距離に歴史の足跡が多く残っています。

見どころ

広島女学院には、被爆ヴァイオリンという特別な展示があります。
原爆の熱と放射線を浴びながらも持ち主に守られたこの楽器は、単なる遺物ではなく「沈黙の証言者」。
異国から逃れてきた家族の記憶と、音楽への誇り、そして原爆の記憶が重なり合った存在です。
東京にいると見落としがちな“戦争の個人史”が、ここには静かに息づいていました。

Riccaコラム:パルチコフの被爆ヴァイオリン

2024年9月28〜30日までの広島ひとり旅、今日はちょっと小噺から。

岸田元総理は、広島を選挙区とする政治家ですね。ファーストレディともなった奥様の裕子さんは、高校生まで広島で育ちました。
地元の人は【ひろじょ】と略称で呼ぶ、広島女学院の卒業生です。

私は地元の人に連れられて、この広女に保管された価値あるものを見に行ってきました。
それは【パルチコフの被爆ヴァイオリン】と呼ばれる、原爆によって放射線を浴びた楽器です。

ロシア革命を逃れて日本に亡命したセルゲイ・パルチコフが、命がけで持ち出し守り抜いたヴァイオリン。
このヴァイオリンは、彼にとって祖国の記憶そのものであり、苦難を共にした家族だったのでしょう。

1945年8月6日、広島に原爆が投下された日。パルチコフ一家は、爆心地から約2.5kmの家屋にいました。
家は無惨に崩れるも、奇跡的に家族は全員無事。しかし、ヴァイオリンは潰れた家に残されたまま。

パルチコフは何度も足を運び、ようやく瓦礫の中からヴァイオリンを救い出します。
1945年、終戦後まもなく彼はGHQで勤め始めました。長男ニコライの手引きで職を得て、なんとか家族は食い繋ぎ、爆風により傷つき放射線を浴びた楽器を手元に置いていたそうです。

その後、1951年、パルチコフ一家は日本を離れます。家族と共に、このヴァイオリンも海を渡り、アメリカへ行きました。
1969年、パルチコフは亡くなります。

そして1986年、広島女学院の創立100周年式典にセルゲイの娘・カレリアさんが来日・出席しました。
その際、父の形見としてこのヴァイオリンを、母校である女学院に寄贈したのです。

ヴァイオリンを手放す——
それは、セルゲイ・パルチコフの家族にとって、どれほどの決断だったことでしょうか。

異国の地・広島で、このヴァイオリンはセルゲイの音楽家としての誇りであり、祖国の記憶であり、そして原爆を共に生き延びた家族でしょう。
そんなヴァイオリンが語る記憶を、未来の人々へ受け継いでほしい——
彼の願いが家族の中で静かに受け継がれ、広島へと戻ってきたのだと思います。

セルゲイの長男・ニコライは、原爆投下から約3週間後、広島へ帰ってきました。
当時の彼はアメリカの諜報機関に勤務しており、原爆投下の報をラジオで知った最初の一人だったといいます。

そして彼が目にした【広島の光景】は、言葉にできないほどの衝撃でした。
「私は戦争の恐怖を知っていたが、広島に戻ったとき、心の準備などできていなかった。
鳥も、人も、木も、建物も、何もなかった。
ただ焼け焦げた人の輪郭が、まるでネガフィルムのようにコンクリートに焼き付いていた。
私が育った家は消え、街そのものが蒸発していた。」

ヴァイオリンは語りません。けれど、その楽器が浴びた光と熱、そしてパルチコフ一家の想いは、今も広島女学院に静かに息づいています。

私は歴史資料館にある、パルチコフのヴァイオリンの前に立ち、ロシア史から原爆の日、戦後の激動の話に耳を傾けていました。

戦前の広島には、ロシアから逃れてきた亡命者たち、白軍の将校、中国からの移民など、さまざまなルーツを持つ人々が共に暮らしていました。
市井の音楽家、雑貨屋の主人、パンの行商人。
外国人であっても誰ひとり敵ではなかった人々が、歴史や戦争に巻き込まれ、証人、目撃者、戦争経験者、そして被爆者にさせられてしまいました。

広島で商店を営んでいたフェドール・パラシューチン氏は、こう語っています。
「爆心地近くで見たあの光景は、まさに闇だった。人の影のような跡が、地面に焼き付いていた」

パルチコフのヴァイオリンは、ただの遺物ではなく、失われた命と記憶を奏でる、声なき証言者です。
戦争という災厄は、決して誰か一人の物語ではありません。
私たちは、今もその声に耳を澄ませる必要があるのだと思います。

あの日、瓦礫の中から救い出されたヴァイオリン。
音楽家の手を離れた今も、広島女学院の展示室で、真実を語り継いでいます。

私はこの楽器に出会えたこと、見せていただいたことを、光栄に思います。
旅は、風景や食事を楽しむだけのものではないんですよね。
時に、ひとつの楽器が、心を揺さぶる旅のハイライトになる。
そんな経験を、私は広島でさせてもらいました。

アドバイス

広島女学院の展示は一般公開されていないこともあります。訪問の際は事前に問い合わせをするか、地元の案内者がいれば心強いです。
また、戦争遺構を巡る際には、歴史的な背景を下調べしておくと、現地での体験がより深くなります。

読者コメント

この記事へのご感想や、広島を訪れたことがある方の体験談をぜひコメント欄で共有してください。
また、戦争の記憶や文化財の保存に関心がある方の視点も歓迎です。

まとめ

被爆ヴァイオリンという、あまり知られていない“証言者”と出会った広島旅。
記録に残らない家族の記憶、音楽に込められた想いが、心に深く響きました。

次回は、原爆ドームと平和記念公園を歩いた記録をお届けします。

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