【滋賀・彦根】井伊直弼ゆかりの埋木舎を訪ねて ─ 桜田門外の変と幕末の謎を歩く

彦根(湖東)

【滋賀・彦根】埋木舎と井伊直弼 ─ 歴史が息づく城下町の旅

プロフィール

幕末の歴史をこよなく愛する、マスク美人のRiccaです。
なんと私は、桜田事変で井伊直弼の首を落とした桜田十八烈士の子孫の婚籍の姪という、ちょっと因縁めいた血筋。
しかも、離婚した元夫の名前が井伊直弼に似ているという奇妙な偶然まで背負っています。
「井伊直弼の政治は見直されてるんだよ!」と熱弁していた彼に代わり、いまこうして彦根を歩きながら、彼の無念(?)や情熱を代弁している気分です。
現在は、桜田門外ノ変を描いた作家・吉村昭の出身地に暮らしつつ、東京でタクシードライバーとして日々奔走中。
歴史と旅の二刀流で、今回も幕末ロマンあふれる彦根の旅を全力レポートします!

訪問先とアクセス

今回の目的地は、井伊直弼が若き日を過ごした埋木舎(うもれぎのや)
JR彦根駅から徒歩約15分、彦根城の南側に位置し、城下町散策と組み合わせるのがオススメです。

歴史・見どころ

井伊直弼は、跡継ぎの見込みが薄い「部屋住み」の身分で、人生の約3分の1を埋木舎で過ごしました。
「埋木舎」という名には「地中に埋もれる木」という、自身の儚い立場を重ねた想いが込められています。
茶歌鼓(チャカポン)と呼ばれるほど茶道や雅楽、和歌に打ち込み、後の大老としての胆力を養った場所です。

旅の感想

静寂に包まれた埋木舎に足を踏み入れると、井伊直弼の孤独と強い意志が今も感じられます。
城下町の喧騒から少し外れたこの場所は、文化人・直弼の素顔を垣間見られる貴重なスポットです。

Riccaコラム

事変の当事者は、歴史の教科書に必ず出てくる井伊直弼。
その役職から、大老または掃部頭(かもんのかみ)と呼ばれていた。

井伊掃部頭は若かりし頃、埋もれゆく部屋住み、跡取りになれない冷や飯食いである自分の人生をなぞらえ、居所を『埋木舎』と名付けた。

私はこの風流な人物を追って、滋賀県彦根市へとやってきた。

桜田事変
今年は『桜田門外の変』に似通った年。

これらの報道から、私は日本に起こった歴史的事件を思い浮かべていた。

江戸の大老、今でいう総理大臣の暗殺事件が起こったあの『桜田門外の変』である。

類似というのは、天気にもある。3月22日に珍しく大雪が降り、水戸では降雪3㎝にも及んだ。

時は江戸幕末、3月もまもなく終わる春分の頃。

(『桜田門外の変』のあった日、安政7年3月3日とは旧暦)

入念な準備を整え、水戸浪士17名と薩摩藩士1名で構成された桜田十八烈士。

大名行列の見物客を装い、井伊掃部頭を襲撃。

身体を貫いた銃弾が致命傷となり、井伊掃部頭はあっけない最期を遂げた。

幕府の失墜
これが有名な『桜田門外の変』の経過だが、、、暗殺されたことまでは知られていても、その後の彦根藩を知っているだろうか。

大老とは、幕府の中枢を担う総理大臣と同等の役職である。

今に置き換えれば、政治家のトップが国会議事堂前で襲われるようなもの。

幕府の事後対策、これまたひどく情けない。

江戸時代の天下太平とは言え、当時は武家政権。

己の不覚による死を迎えた場合、お家断絶・所領没収と決定づけられている。

順当に処理してしまえば、藩主である井伊掃部頭を失った彦根藩はお取り潰し。

名君無くして行き場までをも失えば「彦根浪士」はどんな行動にでるか‥

『徳川御三家・水戸 VS 筆頭譜代・彦根』
日本を揺るがす大激闘!!…これはマズイ!

権威の傾きつつある幕府は、井伊掃部頭の死を病死として扱い、彦根藩の存続を正式な手続きをもって進めた。

首を取られてしまった井伊掃部頭の死を『怪我』→『病死』として片付けたのである。

当然、世間は大笑い。皆が知る大事件なのだから、幕府の対応に呆れてもう笑うしかないのだ。

会津の悲劇、本来は
格式高い井伊家の名誉となる『京都守護職』もはく奪され、会津・松平家が後任となる。

井伊家が免職されずに『京都守護職』のままで在れば、後の会津の歴史は、彦根の悲劇になったかもしれない。

埋もれず人生を終えるも、笑いのネタとされた井伊掃部(良いカモ)。

『埋木舎』への想いはつのる。

ワンポイントアドバイス

埋木舎は彦根城の観光ルートとセットで訪問するのが効率的。
椿の開花時期(冬~春先)は特に風情があり、写真映えします。
開館時間は9:00~17:00、入館料は大人300円程度です。

まとめ

井伊直弼の人生を象徴する埋木舎を訪ねることで、幕末史がより立体的に見えてきます。
彦根観光の際は、城だけでなく埋木舎にもぜひ足を運んでみてください。

コメント

タイトルとURLをコピーしました