【滋賀・彦根】将軍継嗣問題と埋木舎 ─ 大老・井伊直弼の野心と阿部正弘の改革

彦根(湖東)

【滋賀・彦根】埋木舎と将軍継嗣問題 ─ 大老・井伊直弼の決断の地

プロフィール

幕末の歴史をこよなく愛する、マスク美人のRiccaです。
私は、桜田事変で井伊直弼の首を落とした桜田十八烈士の子孫の婚籍の姪という、少々因縁深い血筋。
離婚した元夫の名前が井伊直弼っぽいという不思議な偶然もあり、「彼の政治は見直されてるんだ!」と豪語した彼の想いを、こうして記事で代弁しています。
現在は、桜田門外ノ変を書いた吉村昭の故郷に住みつつ、東京でタクドラとして日々奔走中。
今回も幕末ロマンを背負い、彦根の旅を全力レポートします!

訪問先とアクセス

今回の訪問先は井伊直弼ゆかりの埋木舎(うもれぎのや)
JR彦根駅から徒歩約15分、彦根城と合わせて巡るのがオススメです。
城下町の風情と歴史を同時に楽しめるエリアにあります。

歴史・見どころ

井伊直弼といえば将軍継嗣問題の中心人物。
1858年、徳川の14代将軍を誰にするかで、幕府内が南紀派一橋派に分裂しました。
南紀派を率いたのが、筆頭譜代大名である彦根藩主・井伊直弼。
対抗馬としては、徳川斉昭や島津斉彬を含む一橋派が、聡明な一橋慶喜(後の15代将軍)を推しました。

時の老中首座阿部正弘は、ペリー来航後の開国問題に苦しむ中で、幕府改革を進める存在でした。
直弼はこの継嗣問題で南紀派を勝利に導き、14代将軍に徳川家茂を擁立することになります。
この決断が後の大老就任、そして安政の大獄への道へとつながっていくのです。

旅の感想

埋木舎を歩いていると、直弼がこの時代にどれだけ重い決断をしていたのかを肌で感じました。
茶道や和歌に親しんだ文化人でありながら、政治の荒波を泳いだ彼の二面性が、ここでは不思議なほどしっくりきます。

Riccaコラム

前回の『埋木舎⑴』では、「井伊直弼」から安倍内閣と阿部改革(老中・阿部正弘)を挟んで書くつもりであった。

元を辿れば、先週の彦根の旅で知りたかったのは『井伊直弼の人物像』である。
埋木舎を訪れ、私が感じたことを気の向くままに書いてゆこう。

将軍継嗣問題
前置きは長くなるが、まず歴史に触れてみる。

1858年、徳川の14代将軍を誰にするか?と議論がなされた。
時の13代将軍・徳川家定。

黒船来航の19日後に父将軍が没し、御世は5年。
世継ぎとなる子が居ないのに、死までの1年間は明日をも知れぬ病床の身だった。

井伊直弼を筆頭にした譜代大名らは南紀派という。
次の将軍にはわずか4歳で紀州藩主となった、徳川慶福(後の家茂)を支持する。

この対抗馬に水戸・徳川斉昭と外様大名らを含む一橋派が名乗りを挙げる。
当て馬となった人物は、最後の将軍として朝廷に政権を返上する一橋様こと、一橋慶喜

南紀派(幕府保守派) VS 一橋派(幕府改革派)
アベの改革、はじまる
日本の危機迫り、老中首座阿部正弘の幕府改革が始まった。

一橋派
薩摩・島津斉彬
越前・松平春嶽
土佐・山内容堂
宇和島・伊達宗城ら。

海に囲まれた日の本の藩の大名は、一橋を推進する。

そして徳川御三家の水戸藩主・徳川斉昭。
『水戸から将軍』を輩出したい気持ちは人一倍強かっただろう。

慶喜の出自
慶喜は、この斉昭の正室の次男として生まれた。
さらに、斉昭の正室は公家の出。

武家と公家の高貴な血筋と、聡明さを併せ持つ慶喜に、周囲の期待は高まる。

慶喜は望まれるままに徳川御三卿・一橋家の養子となり、12代将軍・家慶からもたいそう可愛がられた。

阿部、死す
しかし結果は、井伊直弼ら南紀派の勝利。
14代将軍に徳川家茂、15代将軍に徳川慶喜が座ることとなる。

三本の矢を整える暇なく、阿部正弘は病没する。享年38歳。

ワンポイントアドバイス

彦根城と埋木舎は徒歩圏内にあり、歴史を追体験する旅にぴったりです。
展示資料や解説パネルが充実しているので、幕末好きなら2~3時間はじっくり楽しめます。

まとめ

井伊直弼の政治的決断や将軍継嗣問題を知ることで、彦根観光はより深い意味を持ちます。
歴史の現場で感じる直弼の人間像は、教科書よりも生き生きと心に響きます。

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